エマニュエル ドゥラブランシュ



彼は後戻りしたかったわけでも無ければ新たなスタートを切りたかったわけでも無くただそこに仕事をしてきたテーブルの前に居続けたかった百ページに亘って数え切れないほどの推敲を重ねたペン描きの小さく緻密なデッサン建物オブジェメモ書き七階の部屋から眼下に広がる町を見続けたかった小さな部屋に暮らしていた彼の新しい景色手入れの行き届いた生垣に囲われた庭を持つ郊外の家々そして空教会の鐘屋根風光広いリヴィングの奥本棚の後ろに暮らしていた彼はそこに留まりたかった思い出やノートの詰まった段ボールハンガーに掛かった洋服足元に置かれた靴そして海辺で拾い気づくと何時しか手に馴染み手放せなくなってしまった石や小さなオブジェ過去の人のように彼はしばしば黙り込んだ
彼は帰ることを誰にも伝えなかった段ボールや使われなくなった椅子や古い布団でいっぱいの久しく使われていない畳の部屋をこれから彼に貸し与えることになる家の住人にさえ伝えなかった彼はそこで眠るそこに腰を落ち着けるたった一つの鞄一冊の本一冊のノートを置く親戚が集まった時にしかその存在を意識することのなくなった仏壇の前に


床屋
まごころを技術に
Menshair
手入れの簡単な
パーマ
デザインカット
店は閉まっていた
子供達僕と妹はそこに通っていた揃って髭剃り用の高い椅子に座って頭をまっすぐにして待つと僕たちの硬い髪はあっという間にいつもと同じように刈上げられた僕たちは店のドアに付いたチャイムを鳴らして外に出る前に会計をした
店は閉まっていた
床屋のおばさんが亡くなってもうずいぶん経つ誰一人彼女の店を継がず彼女のはさみも誰かに再び手に取られることは無かった床屋のおばさんは亡くなっていた僕は黒いキラキラしたロングヘアーの彼女の事が好きだったから鏡越しに彼女の反転した顔に見入ったものだ薄い唇黒い眼それから繊細な彼女の手床屋のおばさんは亡くなっていた僕はドアの前に立ちたった今それを知った


小さな庭に積もった雪僕は事態を重く捉えすぎないようにする誰も付いて来ないとしてもいつか帰るんだ
小さな庭に積もった雪雨が降り溶けた雪近所の図書館から僕の前に広がる白紙のページ
小さな庭に積もった雪道端に投げつける「お茶漬けの味」師走の中頃まで明日観に行こう


彼はたくさん飲まなきゃ意味がないと言い
彼女は飲んでも体を壊すだけだと言った
日本の酒を映したこの写真を受け取ってデュラスとドゥルーズの飲み物に関する言葉をふと思い出したアルコール浴びるように飲むことつい手に取ってしまうこと止められないこと酒に依存すること禁酒すること
同時に日本の飲み会の事も思い出した小津映画カウンターに肘をつく床に寝っ転がる男たちは自分たちの日常から逃げ出すために飲み最終的には追い出され真っ暗な道で酔っぱらって大声でわめき立てる
遠くを知りたいと思う者も居ればより深く知りたいと思う者も居るそこに腹の中にあること他の誰かが遠くへ投げ出し押し遣り遠ざけることそして来るべき日を視界の外にやること少なくともそうしようとすること
誰にでも酒にまつわる好きなエピソードや忘れたくなるようなエピソードがあるものだ空の或いはなみなみと注がれたグラスを持つ手を遠慮しながら差し出す振り返っちゃいけないあいつの声が聞こえる振り返っちゃいけないとあいつは繰り返す
その夜東京の東側にある江戸川区に宿をとった人気の無い通り閉鎖された水辺の倉庫窓にあかりは灯っていないぽつんと立つ一軒家と夜の空白に吐息を響かせる僕たちの足音僕たちは道に迷いながら小さな声で話をしていた
その家は正方形の真ん中で両隣の家の間で肩身狭そうにしていた小さな塔のようなワンフロアに一部屋しかない細長い建物や本棚あるいは収納棚として使われている階段閉じられた扉町は無くなっていた階段を上り台所を横切り更に上へ居間そして書斎床の上で眠っている人また更に上りあらゆる物で溢れかえったこの部屋で眠るここからは遠くに新宿の明かりが見える


ここに生まれてもう三十年以上が経つ電車でメトロでタクシーでそして歩いて町の中はどこも行きつくしている町変化し黙り時代に適応していくコンクリートを生き返らせるにあたって姿を消したファサードを見る木を取り換え次にガラスを取り換える建物全体の石材みたいだ数え切れないほどの特徴を前にその若さが保たれる楽しみ苛立ちそっぽを向く東京が同じだったことは一度もない何一つ長続きせず東京は留まること無く姿を変えるいつもの絶え間ない東京東京が不変であることなどあり得ない


月曜日午後五時
物音のしない通り少しだけ足音が聞こえる車は通らず坂道を駆け下りる自転車の影さえ見えない道通行人近所の見知った顔家族の誰かの友達かつてのクラスメイト犬が一匹座っている
建物の正面の壁に立て掛けた自転車のハンドルに手を置き黄色いフレームにまたがる行先は街角のパン屋さんだ通りに名前が無いことに慣れるには何年もかかった子供の頃に僕たちが住んだこの海辺の町のような界隈を把握するのはあっという間だったのに
家壁垣根そんなものをのを手でかすめるある家の庭の前を通り過ぎると聞こえる犬の吠え声毎日同じ時間に聞こえるシャッターの軋む音誰かが家の中から姿を見せずにシャッターを閉める交差点歩道電柱そしてそこから繋がるテレビの放つ頭がくらくらするような電気的な雑音町で行き交う人たちは相変わらずの見知った顔ばかりのままここは他の町から切り離され何処にも行けないみたいにひょっとしたら他の町なんてそもそも存在せず彼らにとってここが唯一の場所みたいに
相変わらず白いタイル張りのシンプルなパン屋壁にはパンを並べた幾つかの棚ショウウィンドウには派手なデコレーションケーキを見せびらかすような冷蔵ケースそして店員は店の真ん中に立ち客の注文を聞き袋に詰めお礼を言いパンを売り切るとシャッターを締める一日が終わる


新宿四階建ての建物には美容室とレストランとバーがまるで何階だろうが関係ないと言わんばかりに引き出しみたいに住居の間に滑り込まされていただからアパートのドアを閉めようとするとパーマをかけたばかりのおばちゃんとばったり目が合ったり仕事帰り吊革に掴まり立ったまま三時間電車に揺られてやっと部屋に着いたかと思うと酔っ払いに出くわしたりした
共用階段は通りから一続きになっていて歩道に張り出した小さなポーチからから繋がっていた各階に散らばったテナントを知らせる看板さえ建物の壁に無かったがこの辺の人たちはみんな知っていたし、時間が経つにつれ建物の中は賑わいを見せるようになっていた
町の人たちはまず午前中に美容室に来てそれからレストランで昼食を摂って最後に夜遅く明け方店を追い出されるまでバーで過ごすそんな事があったり無かったり
大家族が暮らした家を取り壊し敷地を分けてとても狭く縦に細長い住宅を建てそこに今では洋服直し(狭小アトリエ)が働き美容室はそこに残り(店は通りに面した一階)フランス語の講師(個人授業)そして町の歴史を書き付けるおじいさんが住んでいる

子供のころ暮らしたアパートとの再会6.24m四方に割り付けられたグリッド内部の小石がむき出しになった玄関のコンクリート製の六角形の柱そして8つの正方形のガラスに分割された縦長の「ペレ」と呼ばれる人間のプロポーションを模した3つの南向きの窓から射し込む直射日光北には反射したもう一つの日の光が3つの窓からリヴィングへダイニングに向かって開かれたオープンキッチンにさらにもう一つの窓アコーディオンカーテンを付ければ僕が眠っていた7m²の小さな寝室が現れる
全方向への視界の広がりとの再会アパートに入った時中に居る時その広がりは対角線方向に奥深くそしてそこで左右に部屋と部屋の平面を横切る視線壁そのものよりも空間を定義するように視線が場所を形作り遠目には整合性の取れないイメージを作り出す 書斎と寝室につながる浴室両親の寝室へは幅の狭い扉でつながりリヴィングの引き戸が閉まっている時僕の部屋からはもう一つの収納スペース越しにつながる
廊下の無い一続きの空間との再会そこでは移動は連続していて言ってみれば決まり事を取り去ったバレエの振り付けのようなもの 僕と兄は部屋の周りを踊りながらというより全ての部屋の扉が開かれたときは部屋から部屋へとワルツでくるくると回ったコンクリート製の柱と梁で持ち上げられた地面の中で空想上の役割を絶えず続ける小麦色のナラの床板の上の低く曇った足音素足
ヴィデオの時間との再会「ペレ」アパートの展示場となった部屋は僕が家族が暮らした部屋のちょうど真上にある地球の反対側で僕が住むことになったこの3m四方の畳の部屋での再会


自動販売機:町から少し入ったあたり忘れ去られた一軒家軽い建材波打つ屋根そこが長い列車の旅の末に辿り着いた場所だぽつんと置かれた駅舎見渡す限りの野原夜の闇に沈むその空き地を通り過ぎる足を取られるようなぬかるみ小さな村ちょっとした広がり等間隔に並ぶ建物無秩序なまでの多様性の中そしてそのほぼ真ん中に四方に傾斜する屋根に守られた木製の正方形の中に収められた二部屋彼と同様、町に働きに出ていた人たちと共に暮らしていた兄は簡素な家の木と紙でできた玄関の扉を開け放していたその扉は時おり締め切られることもあった日中老人が孫の面倒を見たり洗濯をするとき夜くたくたになり帰宅したとき仕事帰り或いは帰ってからもう一度ふらっと出かけその辺で何か夕飯に食べるものを買うラーメンと温かい中華スープそしていつも自動販売機の前を通る独りぼっちで町から切り離された物体偶然そこに置かれたかのように或いは忘れられかのようにどれも所在無げでくすんだ様々な色とジジジっと音を立てるネオンの強烈な光そして並べられた商品に驚き立ち止まる:テレビ


僕の住んでいた新宿のアパートにはレストランが入っていたその店はとてもシンプルで二部屋ある僕の部屋と同じ広さの隣人の部屋を合わせたのと同じ広さで全部で四つの小さな個室の座敷部屋がありそこで食事がとれるようになっていた調理場は下の階にあり藤本さんは料理を運ぶ為に絶えず梯子とでも言って良いような殆ど垂直の階段を駆け下りたり駆け上ったりしなければならなかったもう一杯とかおかわりとか客が呼び鈴を鳴らすや否や藤本さんはすぐに駆けつけたいつも静かで僕たちには木造の階段を駆け下りる彼女の足音しか聞こえなかったくらいだ
ある朝レストランは開店せず軒下で座って待つ料理人は藤本さんが何処に居たのか知らなかった

十一
紙でできた塔がそびえ立つみんながどう思うかはともかく僕にはそう見える町のど真ん中で家よりもビルよりも高くデコレーションされたサイロみたいな細長い塔白い塔下には「アクティブパーキング」と書かれている分かってるって
建設現場にはそれと分かる建物を隠していたものは何も残っていない足場は解体されクレーンは取り外されヘルメットをかぶった作業員たちは何処かへ行ってしまった中身が機械のもう一つの紙の塔の建設命を吹き込まれた有機体が裕福な駐車場オーナーに許可された幾つかの自動車を上へ下へと運ぶ今度内臓や高鳴る鼓動を隠すのは彼の番だ鈍い音に包まれた運動守られる秘密
プラットフォームの上に停めて車を降りセンサーに鍵をかざすと僕たちの手を離れ重力からも解放されたようにあっという間に吸い込まれるかのように車は上昇する軽やかな螺旋自動車大群エレヴェーターは止まりプラットフォームが回転し塔の下から車整列させる機械の音がする誰かの目を覚ますことの無いよう音も無く上の階の車庫の奥に車を指でそっと押し込むみたいに
「アクティブパーキング」そう書かれている誰も建物の中に入ることは無く入り口に職員の姿も無い
十二
二軒の家の間奥に工場「パッシヴな駐車場」カバーをかけられた自動車隠された自動車僕は径を通り角を曲がるベランダがせり出す僕はそれを避ける

十三
ほぼ何もない祖父が彼の兄と切り盛りしていた会社に関するものはほぼ何も残っていないトタンの切れ端腐食した錆傷口が拡がら無いようバンドエイドを貼った以外殆ど手当てされていない傷口のようなものだ整備や補強のことなどは考えられていないしかし色褪せた板張りの或いは炻器タイル張りの床の上に建て付けられたこの灯り取りの付いた木製の壁の間にどれだけの思い出があるだろうか一日を通して工員の元まで届く和らげられた光不揃いな板を使った大雑把なつくりのせいで冬の寒さも同様に入り込むそんな中で亜鉛を加工する大きな作業台の上で折り曲げ切断し切り抜き曲げる作業台の上にはアームと焼き入れされたスチール製の刃が載っていた材料はそれ自体冷たく内にこもったような波打つ音に呼応するかのような灰色をしていた
そこにはいつも紙が一枚あった直接ゴムで留められた小さな黒いノートから切り離された枡目の入った一枚の紙年末に業者から貰う贈答品合皮の表紙に金色で浮き彫りにされた会社名そして過度に細く切られた紙に屋根ふき職人の手によって上に描かれたこれから作られる部品の絵その上に置かれた鉛筆
特有の臭いのことは思い出せないが積み重なった亜鉛の鉄板や後は捨てられるのを待つだけの削りくずと切れ端でいっぱいになった巨大なケースに反射する光はよく覚えている僕はその切れ端をくすねて特に考えも無く折り曲げ機に入れたものだただレバーを操作し分銅の落下を感じるゆるやかな釣り合いの妙ふらふらと静かに 亜鉛が引き伸ばされ折られるのを感じる僕はそれを拾い上げ隅の方でもう一度たくさんの小さな彫刻を作り始めるきっぱりと自信ありげに折り畳む 持って帰るには他人の目など気にしてはいけない
新しい資材を置く倉庫にはあるスペースがあったそこには使い古した物くずゴミが出鱈目に積み重なっていた 日が経つにつれて体積を増していく地面に打ち込まれた鉄の棒で支えられた木の板がどうにか人が一人通れるだけの通路を確保していたその強烈な映像は今も僕の中に存在し記録されているしかし 今となっては全くの空っぽだ跡を継ぎそこを放ったらかしにし亡くなった父閉店倒産した会社
十四
僕にはもう自分の影の事が分からない影は僕に似ても似つかないし僕を映し出しもしないしいつも僕の一二歩先を行く
僕にはもう自分の影の事が分からない影は見境無く信じ込み僕の代わりに喋り僕を閉口させ僕を地に埋め思うままに僕を連れて行く
僕にはもう自分の影の事が分からない影は痛みに身をよじり絶えず体を曲げ不平を言いうめき隠れ地中に潜る
僕にはもうここで何をすれば良いのか分からないどうしてここに連れて来られたのかどうしてそれはそういうものだとか落ち着けとか進めとか言われなきゃならないのかそういうことが書いてさえある
入り口に僕は立っている

十五
だだっ広い広場の真ん中に自転車置き場がある大人の背丈ほどある金網に囲まれた土地そこに日中自転車が停まり夜にはスクーターも停まる自転車はスタンドを立てて真っ直ぐに並べられハンドルはフレームに対して十字を形作るこれは金属製の体を持ち時折姿を消すものたちの為の常設の墓地だそして作られた十字架が指し示す地面の奥深くに埋葬された人間のようなものだ

十六
騒音に包まれた町全体が絶え間なく息を吐き出す包み込むような呼吸空に向かって手を広げるどうにか違う生き方が出来ないだろうかと耳を傾けていたもっと悪い状況に慣れていたそんな日常を心に仕舞い込んでいた手落ちを真似るように白い木箱をあちこちに散らかされた吐息室外機は窓の下に切り妻の上にベランダに屋根の下に中庭に設置されているそれぞれの場所にその人工呼吸器或いは肺器官は取り付けられとめどなく穏やかな電子音楽を奏でるここでは全ての事が真逆だったのに片手で持ち運べる物や家具例えば部屋から部屋へと連れて歩けるこの灯りや体の周りの空気だけをあっという間に温める程度の補助的な小型ストーブみたいにこんにちは電気こんにちは暖房夜の寒さの中で

十七
何もない一日

十八
街角のラーメン屋ではウェイターの姿すら見えないテーブルの上の間仕切り板を滑らせるとどんぶりが運ばれる壁に向かってひとりぼっちでラーメンをすする一続きのしかし一席ずつ仕切られたテーブルそれぞれが好きなものを食べる
僕たちは人生のかなり早い段階でかなり若い内に同じようなことをして同じ町に住み似たような事を考えている見分けのつかないくらい良く似た人のなかにありながら人間はひとりぼっちだということを学ぶ仕切られた壁に向かう事を学ぶその中で僕らは切り離されるまるで僕らは本当にひとりぼっちであるかのように
椅子をずらし背もたれに寄りかかるようにして周囲を見回す誰も居ない両隣の席は空いている僕はひとりぼっちだ

十九
僕は町を壁を通りを捨て雑音や泣き声を捨てた僕は家と家の間や人と人の間や夜と夜の間の空白を捨て彼女のもとに戻ることが無いように捨てた
僕は君の足音を捨て君の夢を捨てた僕はまやかしか或いは気休めでしかない庭を後にした僕は香りや色を捨て風や雨や光を捨てた僕は霧に身を隠すように姿を消した
僕は町を後にして何処か他所へ行ったつまり目下ストライキ中というわけだ

二十
年越しの料理
おせち
栗きんとん (栗のピューレ) / だて巻き (オムレツ)
かまぼこ (すり身) / 黒豆 (黒豆)

二十一
毎年夏の初めはドライブに行った荷物を一杯に詰め込んだ錆びたシビックに乗り込むと僕たちの前にあるのは町から延びる高速道路だ分岐に次ぐ分岐カーブや直線が途切れなくいつまでも続くカーブを曲がりながらバックミラーに映る巨大な東京スカイツリーが遠くなっていくがどこか遠くへ今いる場所を抜け出して行けるところまでギリギリのところまで行きそこさえも乗り越えてまた海へとそんな強い気持ちが続くもう一つの広がり名前の無い通りそこでも自分を見失うしかし我武者羅に身を投げ出した時に肌に感じる塩は同じでは無い

二十二
明日は初日の出を見に行くんだ

二十三
日はまだ昇っていないが町はもう動き出している僕は新宿のバスターミナルで何時間も彼女を待ち続けている事故かテロそうかもしれないが僕には何も分からない何の知らせも来ない心配だ彼女は昨日発ったのだから今日帰ってくるはずなのに国際線のフライトは田舎町から東京に出てくるのと同じくらい時間がかかるのか或いは飛行機に乗り遅れたとか乗り継ぎで時間が掛かったとかインドのムンバイの空港で居眠りをしたのか太陽はもうその姿を見せ僕はプラットフォームでこの遅れのことや静けさに不安を募らせた
角地にある家まで歩いて帰る玄関の扉を開けそして閉める振り向き腰を下ろす靴を脱ぐ部屋は空っぽで寒々しく薄暗い何だか高くそびえる近所の大きな家に外の光を独り占めされているみたいな気がする隅に置いたソファ不安と物足りなさを感じる静けさに包まれて眠る電話が目を覚ます
彼女はパリに居て出発さえしておらずその飛行機にもまた別の飛行機にも乗っていなかった彼女はまだパリに居たここに残る彼女は言った明るくどこか確信を持ったような声だったたぶんここに残る電話を切ったのはどちらだったかもうこれ以上何も言わず唖然として黙り込むこともなく
町に出て道を歩く走ったと言っても良いかもしれない
全部終わってしまったんだ

二十四
二階の事務所角の家外に目をやるともうすっかり暗くなっている机の上には本が置かれ積み重なり散らかっている地球について書かれた本父さんの本棚にあった一揃いの本しかしそこにあるのは地球の一部に過ぎないうわべだけの世界一周旅行スイスユーゴスラヴィアギリシャの島ブルターニュオーストリアベルギーブリュッセルオクスフォードとケンブリッジイタリアのリヴィエラアルザスモスクワプロヴァンスロンドンギリシャフィレンツェマドリードアムステルダムイスラエルコートダジュールヴェネツィアホラントパリイタリア湖水地方ローマに向けて一っ飛び幾らか欠けているかもしれない地下倉庫の物置にある段ボールの中に隠れているかもしれないそんな事は無いか父さんはこの内何処に行ったのだろうスイスには僕も行った75年か74年だったと思うその後少し何度か立ち寄ったこともあったジュネーヴとかローザンヌの湖とかそんなところだユーゴスラヴィアには一度も行っていないだろうギリシャの島にもでもブルターニュキベロンブレストラニオンには確か僕の生まれる前に家族か夫婦で行っているまずだオーストリアには行っていないベルギーは立ち寄ったくらい確かブリュッセルだ分からないけれどオクスフォードとケンブリッジには間違いなく行っていないイタリアのリヴィエラには行った多分新婚旅行でおじいちゃんの車古びた白いオートマチックのシムカシートが赤くて丸いライトが付いていたアルザスには百回ほどストラスブールミュルーズコルマーいつも夏か冬だったモスクワには一度も行っていないプロヴァンスに行ったのは国道での通り道だからロンドンに行ったとは思えないギリシャも無いだろうフィレンツェには母とツアーで死ぬ少し前だったバスのグループ旅行だったと思うマドリードにもアムステルダムにもイスラエルにも行っていないコートダジュールへは子供の頃にそれにしても何度その話を聞かされたことかそれなのに一度も僕らを連れて行こうとはしなかったヴェネツィアには母が一人でホラント分からないなパリ行っていない訳がないでも何故だろう美術館とか町の記憶が何処にいつ行ったのか思い出せない多分知らないうちに一人で行ったんだろうタワーツアーイタリア湖水地方には新婚旅行の帰りにシムカは良く頑張ったローマについては二階の本棚から落ちてきただけで何処か他所の話だまた別の落下また別の階また別の町また別の時
東京に関するものは何も無い父さん一度も行かなかったからな
二十五
家は消えていたそこには道路と土地を隔てる小さな段差と玄関に続く階段基礎の一部と敷地のところどころに残された舗装された地面が残っているだけだ過ぎ去った時間のぼんやりとした名残跡痕跡etここでどれくらいの時間を過ごしたのだろう何度食卓を囲み何度夢を見て夜を過ごしどれだけの本を読んだのだろう二階にはどれだけの泣き声が隠されていてどれだけの涙が頬を伝いどれだけの不安に襲われたのだろう息を潜めるどれだけの家族パーティーをどれだけの空虚な沈黙を君は何度話をして何度話を聞いたの初めて喋った言葉最後に放った言葉
通りは無駄に広く緊張感を失い放ったらかしにされているみたいに見えるそこで途方に暮れる
二十六
初めてかもしれないしそうではないかもしれない日の光が雪化粧した町に向けられて思い出すこと雪が空に舞う穏やかでぼんやりとした時間の断絶身を起こしそして夢の中に身を沈めるもしそれが最後の日ならと
雪の外套に吸い込まれる騒音緩慢な落下時間が止まる動くものは何一つも見えない人も動物も白いヴェールの下に隠された自動車断絶身を起こしそして夢の中に身を沈めるもしそれが最後の日ならと
動くこと歩くことでは無くましてその場に凍り付くことでもない顔と視線沈黙を守ること身を起こしそして夢の中に身を沈めるもしそれが最後の日なら
空には地面と同じように覆われた白い色罠に捕らわれたような完全な照り返し白い空気呼吸する呼吸を整える空気が足りなくなるもうすぐ夜が来るそれを知っているそれを予感する身を起こしそして夢の中に身を沈めるもしそれが最後の日なら
扉が音を立てる情熱は消え女は離れ男は彼女を引き留める身を起こしそして夢の中に身を沈めるもしそれが最後の日なら
初めてかもしれないしそうではないかもしれないそんな気持ちがまとわりつき頭の中で繰り返される目の前にある物のせいで世界が見えなくなる思い出喜び叫び人々も存在場所周りを見回しても何も起きている様子はない距離を置くかのように酷く印象的で減速された過ぎし日の面影がもう一度そして永久に頭から消えていく身を起こしそして夢の中に身を沈めるもしそれが最後の日なら

二十七
亡骸の目を閉じ共に墓に埋める手紙の封を閉じそして墓の蓋を閉じる静寂がやってくる黙祷の為に口を閉ざし目を閉じ町に向いた窓のカーテンを閉めドアを閉じ道を閉ざす口を閉ざす平静がやってくる空洞を残しながら傷口を閉じる痛みがある道を閉ざすもうそこは通れない海を橋を河を閉ざす括弧を閉じ自分自身に帰る論争をやめその部屋に鍵をかける後ろに下がりピリオドを打つ一つの時代に幕を下ろす夜が来る真っ暗な夜
そして自分の殻に閉じこもる



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écrit ou proposé par : Emmanuel Delabranche
Licence Creative Commons (site sous licence Creative Commons BY-NC-SA)
1ère mise en ligne et dernière modification le 11 mars 2018.